「感動をありがとう」に違和感ありますか?
浅田真央のフリーは最高の演技でした。素晴らしい。
Facebookのタイムラインでも「感動をありがとう!」という投稿を多数見かけました。今朝の朝刊でも、この言葉が踊っています。(広告ですが)
しかし、この「感動をありがとう」という言葉、以前からものすごく違和感があります。「勇気をもらった」も同じです。妻や娘に言うと、「何とも思わんけど。。。」と言うだけ。
普通の感覚ではおかしいと思わないのかなあと思って、ググってみると、やはり同じような違和感をもつ人は結構いますね。個人的なブログだけではなく、それなりの識者がオンラインサイトで主張しているコラムもありました。いくつか紹介します。
2006年7月4日/日経ビジネスオンライン(小橋昭彦)
国際的な試合に対して「感動をありがとう」を言うのは、それを一種のパフォーマンス、観客に対して何かを与えるためのイベントと考えているということであって、真剣勝負をしている(はずの)選手に対して失礼ではないか、という思いが違和感のひとつの理由でしょう。
そしてもうひとつの、より根本的な理由は、そもそも感動というのは、「あげます」「ありがとう」と手軽にやりとりできる種類のものではないというところにあるようです。
オリンピックやスポーツの国際大会のたびに、放送局に送られる視聴者からのファックスには「感動をありがとう」の言葉が氾濫し、いまでは立派な国民的紋切り語として定着してしまったのである。ほんとうに感動することよりも、感動することのできる感受性豊かな私、それにお礼をいうことのできる良い人である私、という自己アピールに酔っているように見えた。それともただ「ありがとう共同体」に参加してみたいということだけだったのか。
自分だけでなく、多くの人が同じような違和感をもっているんだ、と安心していたところ、次の記事を発見。
2011年7月11日/日刊SPA!
「当然の言い方である」と「特に気にならない」をあわせると90%!
「違和感がある」と答えたのは、たったの10%。自分、圧倒的マイノリティじゃん!
違和感がある人はわずか10%しかいないのか、と少し意外でした。が、よく読んでみると、ネットアンケート調査の対象が20〜30代の男女100人なので、その結果はあまり信用できません。
しかし、あまり多数派ではなさそうなので、普段はあまり主張しないようにしよう。
この議論は、たまたま先日読んだばかりの本「私の嫌いな10の言葉」(新潮文庫)での日本人論とも大いに関係がありそうです。
中島義道「私の嫌いな10の言葉」 - igawa's Blog