新田次郎『武田信玄』(文春文庫、風の巻〜山の巻)
以前のエントリーで少し触れていましたが、少しずつ読んでいた新田次郎の『武田信玄』(全四巻)をようやく読み終えました。
大河ドラマの原作、新田次郎「武田信玄」(文春文庫) - igawa's Blog
誰もが知っている戦国武将ですので、私がここで武田信玄の偉大さや小説としての面白さ等について紹介するつもりはありません。(壮大なお話なので、私には荷が重すぎます。…言い訳です。)
その代わりといってはなんですが、各巻末の「あとがき」が興味深かったので、ご紹介します。
ただし、このあとがきは作者新田次郎が今から40年ぐらい前に書いたものですから、現在では歴史の解釈等に違いがあるかもしれません。その点は ご了承ください。
山本勘助は軍師ではなかった?(「風の巻」あとがき より)
武田信玄に関する史料で有名なのが、山本勘助の子がまとめたものだと言われている「甲陽軍鑑」という軍学書です。
「甲陽軍鑑」を山本勘助の子が書いたとすると、父親を軍師に仕立てるのは当然で、また、軍師山本勘助が他の信用おける史料には全く登場しないことから、実在したとしても軍師ではなかったことは確実だろう、と新田次郎は言っています。
しかしながら、こと武田信玄にかんしては「甲陽軍鑑」の影響力が大きく、軍師山本勘助が登場しないことには収まりがつかず、作者としても山本勘助という名を無視しては武田信玄が書きにくかったそうです。
そこで、「武田信玄があれだけの大事を為すにあたっては、必ず情報機関をもっていて、そのなかには優れた人間が数多くいたことは間違いない」と考え、その隠れた人たちを代表して山本勘助を登場させたというのが、新田次郎のスタンスでした。
正室・側室の名前(「林の巻」あとがき より)
戦国武将の正室や側室の名前の扱いは、歴史小説家を悩ませる問題です。
というのは、戦国時代に関する文書の中に女性の名前が登場することはごく稀で、多くの場合は、名前は出さずに生家の姓をそのまま使って「三条氏」のような形でしか記録に残っていないからです。
しかし、小説に出てくる女性の名をすべて、三条氏、禰津氏、諏訪氏というふうに呼ぶのはおかしくて情緒もなくなるので、三条氏はそのままにして、側室の禰津氏には里美、諏訪氏には湖衣姫と名付けたそうです。
諏訪頼重の娘で武田信玄の側室となり勝頼を生んだ諏訪御寮人は、美女であったことは語り伝えられているようですが、名前については知る由もなかったので、諏訪湖に流れ込む川の河口に衣が崎という地名があることにヒントを得て湖衣姫とした、とのことでした。
ちなみに、井上靖の小説『風林火山』では「由布姫」と呼ばれています。
武田義信は自害か、病死か(「火の巻」あとがき より)
新田次郎が火の巻で最も力を入れたのが義信事件。
武田信玄の嫡男(正室三条氏の長男)である義信が、父信玄に逆心を抱いたがために座敷牢に入れられ自害して果てたと「甲陽軍鑑」には書かれているらしい。ただ、同じ「甲陽軍鑑」には病死説も取り上げられています。つまり、真相は分からない。
信玄の駿河侵攻作戦に対して義信が反対したから自害させられたという歴史家の見方は正しいであろうと考えつつも、自害したか病死したかどうかは全く分からないという所が小説になると新田次郎は述べています。
本書では、自害説を取らずに病死説をとっているのですが、それは、自害説をとるとすれば作者のなかの信玄像が根底からひっくり返ってしまうからだそうです。
史実というものが明確に定まっていないからこそ、歴史小説はこのように作者の史観があらわれて面白いですね。
信玄が もう十年長生きしていたら(「山の巻」あとがき より)
本書を原作とした1988年のNHK「武田信玄」は、初めて観た大河ドラマということもあって、私にとっても印象深い物語です。
以下の文章を読むと、作者新田次郎が信玄に対していかに惚れ込んでいたかを感じます。
上洛に生命をかけた信玄の悲劇的な最期を書くときは、感情に押し流されようとする自分自身をおさえるのに苦心した。(中略) もし信玄が、もう十年長生きしたら、天下はどう変わっていたか書いてくれと云って来た人がいた。これほど無理な注文はない。いかなる力を以てしても歴史を覆すことはできない。信玄は過去においても、現在においてさえも、その死が惜しまれているところに存在価値があるのである。
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