金谷武洋『日本語に主語はいらない』(その0)
先日書いた「象は鼻が長い」という文の主語に関するエントリーで紹介していた『日本語に主語はいらない』を読みました。再読です。
- 作者: 金谷武洋
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/01/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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著者の金谷武洋さんは、カナダの大学で長年日本語を教えている先生ですが、日本語を外国語として教えるにあたって、日本の「学校文法」が全く役に立たないことに腹立たしくなって、本書を執筆したそうです。
日本語を教える仕事を通じて次第にはっきり自覚されてきたのは、現行の学校文法は誤りがあるということだ。しかもそれは抹消的な部分ではなく、日本語の根幹に関する部分での大きな誤謬である。言語学的にも明らかなこの誤謬が、すでに心ある研究者によって指摘されながら、いまだに抜本的に改正されないということが、私には不思議でたまらない。(p14)
日本語教師としての著者の問題意識は、英語と日本語は根本的に違う言語であるにもかかわらず、その違いがどの文法書にも明記されていないだけでなく、学校文法では英文法を下敷きにしていることにあります。
例えば、英語や仏語であれば「文には主語と述語がある」と言えます。ところが、これは日本語では誤った概念であるにもかかわらず、日本では明治以来ずっと国語の時間に「文には主語と述語がある」と教え続けてきているというのが著者の主張です。
この日本語文法のおかげで、外国語としての日本語教室ではどうなっているかと言うと、学生が日本語教師に「あなたはどこで生まれましたか」と聞いてくるそうです。生徒から教師という状況に限らず、出身地を聞きたいなら、確かにほぼ100%「あなた」を使うことはないと思います。この誤りを「日本語にも主語と述語がある」という文法では直せないと著者は嘆いています。
「日本語では主語が省略されることがある」という姑息な説明がされる場合がありますが、そうではなく「主語」という概念自体を日本語文法から消してしまうべきというのが、本書の主旨です。
ときどき、歴史に関して自虐史観が話題になりますが、文法に関しても日本人は自虐的であると、本書の中で著者は何度も叫んでいます。
仏語には仏語の、日本語には日本語の論理があるのだから、非論理的だなどという誹謗中傷は止めてもらいたい。これははっきり言って冤罪である。(p112)
英語に主語があるのだから日本語にも主語があるべき、という差し迫った衝動に囚われていたからであり、それが彼らにとっての脱亜入欧の姿勢だったのである。(p136)
本書で展開される日本語文法論(特に「主語」の扱い」)は、とても面白いというか、まさにその通りだと感じます。このあと、著者の主張を紹介していきたいのですが、いっぺんには書ききれないので、何回かに分けていきたいと思います。今回は本論に入る前ですので、タイトルに「(その0)」を付けています。
序章 モントリオールの日本語教室から
第1章 日本語に人称代名詞という品詞はいらない
第2章 日本語に主語という概念はいらない
第3章 助詞「は」をめぐる誤解
第4章 生成文法からみた主語論
第5章 日本語の自動詞/他動詞をめぐる誤解
終章 モントリオールから訴える
本書の書きぶりは、著者が勢い余って現行の学校文法を感情的に否定している感じを受けるため、批判も多いようですが、金谷さんの主張はほぼ正しいと私も思います。
「日本語の構造は 主語+述語ではない、という文法が実は正しかったんです」というふうに過去の日本語教育の誤りを認めるとなると、国語だけではなく英語教育にもおいても影響が大きすぎるので、誰にも(国家レベルで)修正できなくなってしまったというのが実態ではないでしょうか。
最後に、序章で書かれている著者の言葉を引用して、今宵はここまでにいたしとうございます。
問題が分かっているのに、犠牲者が再生産されているのに、手を拱いて何ら行動に移らないとしたら、それは「限りなく卑怯に近い怠慢」であろう。そう考えて私は百年以上の悪しき伝統、学校文法の継続に積極的に反対することにした。終章の題「モントリオールから訴える」の「訴える」には告発の意味も込めたつもりだ。(P20)