日本人の知性をゆがめた学校の読み方教育
読み方には 二種類あります。
一つは、例えば前日にテレビで見た野球の試合記事のように、書いてある内容について読む側があらかじめ知識をもっているときの読み方。これをアルファー読みと呼ぶことにします。
もう一つは、内容・意味がわからない文章の読み方で、これをベーター読みと呼ぶことにします。すべての読みは、この二つのどちらかになります。
もちろん、アルファー読みの方がやさしいから、学校の読みの教育もアルファー読みから始まります。しかし、これだけではモノが読めるようになったとは言えないので、どうしてもベーター読みができるようにならないといけません。そのベーター読みを教えることが至難の技で、どこの国でもうまくいっているところはないと言っていいのですが、日本の学校は早々とベーター読みを諦めました。
その代わりにどうしたかというと、アルファー読みでもベーター読みでも分かる物語・文学作品を読ませることにしたのです。フィクションは未知の世界のことを描いています(つまりベーター読みが必要)が、日常的な書き方がしてありますので、アルファー読みでもいくらかは分かります。つまり、物語や文学作品は、アルファー読みからベーター読みへ移る橋がかりのような役割を果たして便利です。こうして、学校の読み方教育は著しく文学的になっていき、日本人の知性をゆがめることになったのです。
国語の教育は、文学作品がアルファー読みからベーター読みへの移行に有効であることを理解しないまま、作り話ばかりを題材に教えてきました。文学的な読み方では、新聞の社説すら読めません。高度の読み、ベーター読みを学校で学ぶことができないというのに、学校自体そのことを考えていないようです。
では、昔の人はどうしていたかというと、アルファー読みから入るのを避けて、はじめからベーター読みをさせたのだそうです。五、六歳の幼い子に「巧言令色鮮仁」などという漢文を読ませていました。まさにベーター読みです。泳ぎのできない子どもをいきなり海へ放りだすようなものですね。
私が昔 国語が苦手だったのはそういうことだったのかと、危うく納得しそうになりました。みんなおんなじですね。
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ではまた…