池澤夏樹『世界文学を読みほどく』を読んだ(その2)
前回(その1)の続きです。
今回は、『世界文学を読みほどく』で紹介されている10作品のうち、読みたいと思った5つの小説について、そのきっかけとなった解説部分を紹介したいと思います。(記事の大部分が引用ですみません)
読みたいと思った小説とは、以下の5つです。
- ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
- ガルシア=マルケス「百年の孤独」
- トウェイン「ハックルベリ・フィンの冒険」
- フォークナー「アブサロム、アブサロム!」
- ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」
読みたいとは思わなかったのは、この5つです。(もちろん、作品の優劣とは関係ありません)
紹介されていた10作品のうち、池澤さんの解説ぶりでは「カラマーゾフの兄弟」と「百年の孤独」は別格扱いに感じました。
それ以外の3つ「ハックルベリ・フィンの冒険」「アブサロム、アブサロム!」「競売ナンバー49の叫び」は、いずれもアメリカ文学です。それは偶然ではなく、たぶん私がアメリカに滞在した経験があるので、池澤さんの解説を読んでいて共感をおぼえたのではないかと思います。
カラマーゾフの兄弟
「カラマーゾフ」を読んでいなければ話にならないとまでは言わないけれども、生きるとはどういうことか、ということを考えるのには、とても役に立つと思います。十九世紀から二十世紀にかけてという時代に、「生きているということを徹底的に味わい尽くす」という貪欲な姿勢で生きる、しかもその貪欲さを何らかの倫理でコントロールしながら生きる、というのはどういうことなのかを考えるのに、ものすごく役に立つ。役に立つ、というと功利主義的に聞こえますが、面白くてためになるっていう意味では、本当によく出来た話です。
3年ぐらい前、この第1巻で挫折していました。
百年の孤独
神話的な起源、それからもう一つゴシップ的な起源、あるいはそれらの混交と、様々な形で展開してきた西洋の小説というものは、ジョイスの「ユリシーズ」とプルーストの「失われた時を求めて」で、ほぼ頂点に達した、書くべきことはほとんど書いてしまったと、考えられていました。この先は言ってみれば縮小再生産しかない、というのが二十世紀半ばくらいまでの雰囲気だった。もちろんそこにフォークナーはいたし、ナボコフも出てきた。さらなる新しい試みもありました。それぞれに面白いし、大いに意味もある。しかしこの「百年の孤独」ほど、過去の小説の遺産から無縁な場所から始まって、それまでの西欧的手法とまったく違う手法を使って、しかもこれだけ面白い、というものはなかった。みんな大変なショックを受けました。
百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))
- 作者: ガブリエルガルシア=マルケス,Gabriel Garc´ia M´arquez,鼓直
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2006/12
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宮崎の焼酎「百年の孤独」も有名ですから、読んでおきたい。
ハックルベリ・フィンの冒険
この「イノセントとは何か」という議論は、アメリカの精神史を考える時にずっとついてまわります。いまだにアメリカ文学の大変大きな主題です。
このアメリカの、自分たちのありかたに対する信頼、自分の判断に対する信頼は、「アブサロム、アブサロム!」の時にも触れたように、新しい国家であることと、地方分権の強い国家であるということに由来します。何事も自分たちで判断し、裁きをつけるという精神的な習慣が背景にあるのです。何か事が起こったとき、彼らは必ず、自分たちの倫理的感度、常識、判断力を信じます。
トウェイン完訳コレクション ハックルベリ・フィンの冒険 (角川文庫)
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「トム・ソーヤー」は子ども向けですが、「ハックルベリ・フィン」は大人向けに書かれています。
アブサロム、アブサロム!
これはたぶん、ヨーロッパ人には決して書けない小説、アメリカでしか生まれ得なかった小説だと思います。アメリカという、とても不思議な、それまでにはなかった経緯でいきなり生まれて、生まれた途端に大人扱いされた、あるいは大人のようにふるまわなければいけなかった国。露骨に真っすぐ繁栄を求めて走って、そのために奴隷制に頼った。三百年前はない、断ち切られた過去を持った国。しかし二百年前から後は、ともかく何もかもを自分たちで調達しなければいけなかったために、しばしば逸脱をしてきた、そういう国の小説です。
ノーベル文学賞受賞作らしいです。
競売ナンバー49の叫び
何が違うかというと、まず主人公の人生、体験、成長等を追う話ではないということ。確かに主人公は、物語の最初の状態と最後の状態では違っています。しかし彼女は、より大きな何かを伝えるための導き手であって、彼女について語ることは作者の目的ではない。
では、そのより大きなものというのは何かというと、それは「謎」です。あるいは「謎があるかないか、謎は本当に存在するかしないかという謎」です。あるいは「陰謀」と言ってもいい。
何か見えないシステムがアメリカ社会に隠されているらしい。「らしい」という兆候がいくつか見えて、それに気づいた主人公は謎を追っていきます。しかし、最終的にそれが「ある」という確証は得られない。しかし「幻想だった」「ない」という結論も出ない。宙ぶらりんの状態のままです。この宙ぶらりんの状態が、今の世界のありかたであるというのが主題。
「陰謀」という言葉に引っかかったかもしれません。
おまけ
池澤夏樹さんという作家をちょっと調べてみました。「スティル・ライフ」という小説で芥川賞を受賞され、また、世界文学全集全30巻を個人編纂されているようです。